岩屋朝徳 随筆集

歴史文化部の中心メンバー・岩屋先生が、2016年頃から協会内で発行しているレポートを集めました。

歴史の始まりを見届け、人の世の全てを見守りながら、出川は流れ続ける。出川が流れているのか、時が流れているのか。水が流れているのか、歴史が流れているのか。

昔、重要な道のことを街道と言った。美郷町には江戸時代の重要な街道が二つ通っている。大名行列の通った羽州街道とそれに準じた脇街道の角館街道(生保内街道)である。

金沢茨島の東に不思議な沢がある。金沢ダムやカントリーパークのある沢であり、北沢と呼ばれている。この沢沿いに不思議な地名と興味ある大石が存在する。

正岡子規が美郷町六郷を通っている。明治二十六年のことである。子規は大曲から六郷を通り、奥羽山脈を越えて湯本温泉まで歩いている。「はて知らずの記」はその紀行を句文で著した作品で、同年、新聞『日本』に連載された。

修行中に得宝は斎藤茂吉の短歌に出会い詩歌に目覚めた。それは大正十四年、十九歳の時だった。得宝の人生の転機であった。かなり衝撃的だったようだ。得宝は次のように語っている。

黒森山を越えて出羽国と陸奥国を往来する道は古代からあった。いつの時代も農民たちの生きる道だったし、領地拡張のために軍勢の行き交う道でも会った。この道は時代によって名前が変わっている。

芭蕉が六郷に来たという事実はない。芭蕉の弟子達が六郷に来たという事実もない。ところが、どういうわけか芭蕉の発句が刻まれた句碑が六郷に三基存在する。

六郷は、「羽州街道」の宿場町である。出羽国(羽州)を通る道だから羽州街道である。出羽国から江戸幕府へ直結する最も重要な街道である。

人々は大雨、旱魃、不作、疫病などの災害があれば山頂に登り神々に祈った。山は村人の生活の糧であり、心の支えでもあった。登山者は、意識するしないにかかわらず、昔の人の生活の跡を踏査していることになる。

洞窟には、後三年合戦の落ち武者が隠れたが、敗残兵に情けをかけてはいけないという源義家・清原清衡の達しがあって助けることが出来ずに落ち武者は餓死したという言い伝えがある。なお隠れキリシタンの礼拝所だったのではないかという話もある。

「カマクラ」という言葉は、昭和時代の中ごろまでは秋田県だけに伝わる言葉だった。日本全国で秋田県にだけある言葉だった。しかも県南部の美郷町六郷を中心とした地域に集中していた。全国くまなく探してもこの名前の民俗行事は存在しなかった。

岩屋朝徳

いわやとものり。六郷登山協会・歴史文化部の中心メンバー。秋田県仙北郡美郷町在住。六郷カマクラ保存会会長。六郷史談会副会長。美郷わくわく大学主宰